“SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART 1
「シンクラヴィア、音楽、マイケル・ジャクソン」 - パート1 by クリストファー・カレル

Chris at Madison Square Garden

Original Article by Christopher Currell

私のマイケル・ジャクソンとの仕事については多くの人が興味を持っており、私の経験を話してくれとの依頼も今までありました。私は考え、そして決めました。マイケル・ジャクソンと私の音楽の関係について少しお話しようと。「Out of Your Head」の記事は2カ月後に再開します。

70年代を通じて、私は様々なバンドやレコーディングセッションでギターを弾いていました。そして私は常に、自分のエレキギターのサウンドを変えよう、あるいは拡張しようといろいろと試していました。私にとっては、ギターのサウンドは、私の頭の中で鳴っている音に比べて限界がある、ということに私は気付いていました。私は、自分のギターからより抽象的なサウンドを出せないかとその方法をいろいろと模索していました。Moogシンセサイザーにはすでに随分と親しんでいましたが、Moogシンセサイザーにはキーボードがついています。私はギタープレイヤーですので、新しいサウンドのアクセス方法にも限界がありました。当時(1970年頃)、シンセサイザー用のギターコントローラーは使えるものがありませんでした。

1980年5月、Audio Engineering Society (AES)のコンベンションでシンクラヴィアⅡが紹介されてから私の音楽キャリアは大きく変化しました。シンクラヴィアは元々、ダートマス大学のジョン・アップルトン教授が、New England Digital Corpの設立者のキャメロン・W・ジョーンズとシドニー・A・アロンソと共同で「Dartmouth Digital Synthesizer」として開発したものです。シンクラヴィアは、デジタルノンリニアシンセシス、ポリフォニックサンプリング、磁気(ハードディスク)録音、シーケンサー・システム技術を包括したハードウェアとソフトウェアのシステムのパイオニア的原型となり、今日ではすべての音楽およびサウンドエフェクトやサウンドデザインにおいては当たり前のものとなっています。

Synclavier II

AESでシンクラヴィアⅡを聞いた時、私はそのサウンドのクォリティにすっかり惚れ込んでしまいました。32のシンセヴォイスがあるのです。それに、デジタルメモリレコーダーと呼ばれているものが内蔵されており、それは基本的に16トラック15000音のデジタルシーケンサーだったのです。ミュージシャンはフロントパネル、あるいはコンピュータ端末を使ってパラメータの操作が可能でした。シンクラヴィアに音符やイベントを入力して曲を作ることができたのです。ギターを弾くように簡単ではありませんでしたが、音楽的にこのシステムを使うことができたのです。

シンクラヴィアがあれば他のミュージシャンなしに一人ですべての音楽を演奏できる、と私は考えました。この当時、私はバンドというコンセプトに失望しはじめていました。ミュージシャンたちが頼りにならなかったからです。私はリハーサルやプロモーションに時間を費やしたにも関わらず、あるメンバーが仕事をしなければならない、あるいは奥さんと過ごす時間が足りない、などの理由でバンドを辞めてしまうことがありました。シンクラヴィアで作曲も演奏も全部一人でできるというアイディアはとても魅力的でした。

シンクラヴィアは私の音楽の夢に対する答えのように思えました!すぐにでも一台欲しい!その時私は厳しい現実を見なくてはなりませんでした。このシステムは4万ドル(約400万円)もしたのです!月500ドル(約6万円)の家賃が辛うじて払える状態だったのに!シンクラヴィアのためにお金を稼がなければならない!シンクラヴィアを実際に買うためには、今のライフスタイルをかなりアップグレードしなければなりません。

私はシンクラヴィアを持っているたくさんの人に電話をかけ、実際に触ってみてこの機械をできるだけ勉強しようとし始めました。質問ばかりしているのですから、たぶん私はうっとうしい存在だったでしょう。でも私にはいつも丁寧に対応してくれました。シンクラヴィアを触らせてくれた人々は時間に寛大で、多大なる手助けや情報をいただきました。その内の一人は、ウェストコーストのNED代理店のデニー・イェーガー氏でした。

最初は事業資金融資を得ようと試みました。銀行を何軒もまわりました。銀行のこうした業務について私は多くを学びました。ローンを申し込む時にはいつも、デニーにコストの見積もりを送ってもらう必要がありました。こうしたことが日常業務になっていました。すべての銀行から断られ、私は作戦を変え、スポンサーまたは投資してくれる人を探すことにしました。そしてビジネスプランを作成するたびに、デニーにコスト明細を度々教えてもらい、投資してくれそうな人にそれを提出しました。その一方で私はなけなしの80ドルをはたいてシンクラヴィアのマニュアルを買いました。ロサンゼルスの電話帳くらいの厚さでしたよ!

2年経ってもシンクラヴィアを買う資金獲得はうまくいかず、最後の頼みとする投資家にも同意は得られませんでした。するとデニーがこう言ったのです、「シンクラヴィアを本当に欲しいんだろ?」私は、「もちろん!」と答えました。すると彼は、クローゼットに一台あるからそれを私に売ってくれると言うのです。個人的なローンとしての分割払いで。興奮したなんてものではありません!彼はNEDにそれを送付して動作チェックとアップデートをしてくれました。そして1982年の夏、私の家にシンクラヴィアはやって来たのです!

私は音楽制作にシンクラヴィアを使い始めました。そのうち、UCLAの学生にデジタルシンセシスについて講義するよう頼まれ、シンクラヴィアをそのためのツールとして使っていました。地元のケーブルテレビからは、イノベーションと創造という題目でトークショーをやってくれという依頼も受けました。このショーをやっている時、ワーナー・ブラザーズ・レコードの関係者がたまたまこのショーにチャンネルを合わせたのです。彼は印象に残ったようで、私に電話をかけ、そして話をしようとワーナー・ブラザーズに私を招いたのです。このミーティングで、彼が私にプロデュースすべきアーティストを引き合わせました。エンジニアのポール・ブラウンも推薦してくれました。今ではポールスムーズジャズのナンバーワン・プロデューサーです。私たちは意気投合し、制作会社を立ち上げてプロデュース業を始めました。シンクラヴィアは私たちのメインツールでした。私たちには他のプロデューサーやアーティストにはまねできないサウンドがありました。シンクラヴィアは優秀なマーケティングのツールでした!デニーへのローンは何の問題もなく返すことができ、そして私は自分のシンクラヴィアのアップグレードをし始めました。

1983年、サンプリングと新しいキーボードが私のシステムに追加されました。それからの2年間、私はシンクラヴィアで様々なセッションを行いました。私の方向性は、プロデューサー兼シンクラヴィア・プログラマーというように変わっていきました。マイケル・ジャクソンから電話をもらったのは1985年の夏です。彼はNew England Digitalから私のことを聞いたのです。マイケルは巨大なシンクラヴィア・システムを持っていました。彼は私に使い方を教えて欲しいと言ってきたのです。彼は大勢のプログラマーにシンクラヴィアを操作させていたようですが、彼らはミュージシャンではなかったので、マイケルは彼らと意思疎通をすることが難しく、そのため自分自身で勉強しようと決めたのです。私はマイケルがシンクラヴィアを学べるよう、学習プログラムとスケジュールを用意しました。そしてついに、じかに会って私が教えるというスケジュールができあがりました。私はある日曜日の朝、彼の自宅スタジオに出向きました。彼は自己紹介をして温かくもてなしてくれた上に、とても礼儀正しかったのです。私はすぐに彼を好きになりました。私たちはシンクラヴィアの前に座って初のレッスンを始めました。

彼は「僕はコンピュータのことは何も知らないんだ」と言うので、私は「問題ありませんよ。まず最初にフロッピーディスクを挿入します」と言うと、彼は「タイムアウトだよ」と言いました。彼はフロッピーディスクというものを知らなかったのです。マイケルはカセットレコーダーの使い方もほとんど知らないことを知りました。彼のテクノロジーの技量はとても限られている!そこで私はもっとシンプルにして続けました。3時間後、私はマイケルにシンクラヴィアの起動方法、サウンドライブラリの呼び出し方を教え、サウンドを呼び出してキーボードでプレイできるようにするやり方をやって見せました。

「今日できるのはここまでだよ。明日はセッションに来てくれるかい?」とマイケルは聞き、私は「もちろん!」と答えました。

これが、私の人生で最も面白い4年間のスタートになるとは思ってもいませんでした!

翌日、私は再びやって来て、マイケルの曲の一つに取り組みました。彼は私に毎日来てほしいと思っていました。彼は私にこう言いました、「君には普通じゃないサウンドを作って欲しいんだ。」私は常にサウンドを作るのを楽しんでいたため、「もちろん、喜んで!」と答えました。これは仕事ではない、遊びでした!私は考え始めました・・・ここにいたければ、仕事の範囲を広げなければならない。これまで大勢のプログラマーやミュージシャンがシンクラヴィアを使ってきたので、彼のサウンドライブラリはカオス状態になっていたことに気付いていました。私であれ他の誰かであれ、マイケルのシンクラヴィアを使う時は、サウンドライブラリは整理してすぐに取り出せるようにしておかなければならない。ハードディスクとデータ保存テープには数えきれないくらいのサウンドが保存されていましたが、どれ一つとして整理されてはいませんでした。私はこの問題をマイケルに示し、彼のためにライブラリを整理できると言いました。彼は「もちろんお願いするよ!」と言いました。そして私はさらに長い時間仕事をすることになりました。私は彼のスタジオに朝10時から夜1時まで毎日いました。この作業には6か月かかりました。1週間に7日間、1日17時間です!1986年のことでした。

一方で、「普通じゃないサウンド」を作る作業は続いていました。普通じゃないサウンドは面白いですが、音楽的な流れで聞かないとあまり意味を成しません。そこで、私はグルーヴや音楽を数小節作り、私が作っているサウンドの使い方の可能性をいろいろと披露していました。それが完成するとカセットテープに吹き込み、家に帰る前に彼の寝室のドアの下の隙間にそれを毎日入れました。彼はサウンドやグルーヴに興奮して夜中の2時でも私に電話をかける、ということが何度もありました。私は彼の背後で私が作ったテープが大音量でかかっているのを聴くことができました。マイケルは大音量で音楽を聴くのが好きなのです!

親しく仕事をすること数週間、意思疎通する能力が少し独特であることに私たちは気付きました。音楽のアイディアやグルーヴについて、私たちはお互いに理解し合っていました。言葉をあまり使わず、感じたり考えていることをまさに「わかる」のだということに気がついたのです。それは素早く核心に迫るもので、マイケルはこんな風に言うのです。「僕にこうさせるようなサウンドを作ってよ」、そして彼はダンスムーヴを始めるのです。私は即座に理解し、そして彼が感じているサウンドを作ることができました。私はこれほどに共感と信頼関係がある仕事を他の誰ともしたことがありません。

Synclavier Digial Audio System

マイケルと毎日いろいろな曲に取り組み、サウンドをデザインし、ライブラリの仕事をして6カ月経った頃、マイケルがクインシー・ジョーンズと次のアルバムにもうじき取り掛かるという話を耳にしました。たくさんのデモ曲が出来上がっていました。私は、マイケルとクインシーと共に仕事をするのか、それとも私の楽しい仕事はついに終わるのか、と思っていました。

ある日、マイケルのスタジオで仕事をしていると、彼の秘書がやってきて、マイケルは今晩お客があるので5時に家に帰ってよいと私とエンジニアに伝えました。「OK、クール」と思い数時間仕事をし、5時近くになると秘書がやってきて、マイケルが私は帰らなくてもいいと言っていたというのです。私はそれがたいしたことだとは思いませんでした。みんな帰り、私がひとりでシンクラヴィアで音楽を作っていました。スタジオの隣の部屋に誰かが入ってくる声を聞いたのは、外が暗くなったころでした。突然ドアが開き、マイケルとダイアナ・ロスとお付きの人たちが入ってきました。私は大変驚きました!マイケルはダイアナにスタジオを案内していました。そして私をダイアナに紹介し、私がやっていることを話してシンクラヴィアを見せました。明らかに彼は自慢していました!それから彼は案内ツアーを続けて、部屋を出て行きました。このような出来事も、その後の4年間では普通のことでした。

Chris in MJ's Studio

ある日の午後仕事をしているとマイケルが、もうすぐニューアルバムの製作をスタートする、Thrillerのエンジニアのブルース・スウェディーンが来る、と言いました。ブルースはニューアルバムのエンジニアになることになっていたので、ある種のPRとあいさつを兼ねた訪問でした。ブルースはスタジオに入ってくるととてもフレンドリーでした。マイケルは私を彼に紹介し、私がやっていることを彼に伝えました。ブルースは私に挨拶をしましたが、彼はマイケルに伝えたいことの方に神経が集中していました。グレゴリー・ハインズとビリー・クリスタル主演の映画「Running Scared」のサウンドトラックを完成させたばかりだったのです。ブルースによれば、全部デジタルでやったのは初めてで、とても素晴らしいサウンドだったとのことでした。彼はその一部始終をマイケルに話していました。シンクラヴィアで作業をしたのも初めてだと言っていました。サウンド製作がとても早い、トラックを簡単に移動できるのは素晴らしいなどと彼は言っていました。シンクラヴィアのオペレーターはとても良い人物で、友人になったとも言っていました。私はほとんどのシンクラヴィア・オペレーターたちを知っていましたが、全員と面識があるというわけではありませんでした。ブルースが言っているオペレーターは名前だけは知っていました。

ワォ、ブルースは自分のシンクラヴィア・オペレーターを売り込んでいる、と私は思いました。私はすぐに仕事を失うだろうと思いました。少し落ち込みましたが、6カ月間素晴らしい時間を過ごしたし、素晴らしい経験もしました。私はニューアルバムには関わらないだろうなと確信していました。

その週の内に、マイケルのキャンプのみんなは、マイケルのスタジオでの仕事はウェストレイク・スタジオに移り、そこでニューアルバムのレコーディングが行なわれることを知りました。誰も私には何も言いません。私は自分がどうなるのか分かりませんでした。私はただいつもどおりに仕事をし続けました。ウェストレイクでの作業が始まる前日、マイケルの秘書がスタジオへやってきて、マイケルが私にアルバム制作に関わって欲しい、シンクラヴィアをウェストレイクへ移設して欲しいと言っている、と私に告げました。ワォ!マイケルが私にアルバム制作に関わって欲しいって!私も選ばれた!控え目に言っても、私は興奮していました!

Chris Playing Synclavier

シンクラヴィアとマイケル・ジャクソンのストーリーは来月に続きます。アルバム「BAD」の製作と、BADワールドツアーです。

来月「イベントホライゾン」でお会いしましょう!

クリストファー・カレル
2015年3月31日

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原文:
THE EVENT HORIZON – “SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART 1
My work with Michael Jackson
by Christopher Currell
March 31, 2015

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※日本語バージョンを作成するにあたり、石井理英子様(MJJ FANCLUB JAPAN)に翻訳のご協力をしていただきました。


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