“SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART 2
「シンクラヴィア、音楽、マイケル・ジャクソン」 - パート2 by クリストファー・カレル

Chris at Madison Square Garden

Original Article by Christopher Currell

メイキング・オブ「Bad」アルバム

マイケルのアルバム・プロジェクトはウェストレイク・レコーディング・スタジオのDスタジオでレコーディングが行われることになっていました。ウェストレイクはカリフォルニア州ウェストハリウッドのサンタモニカ通りにあります。アルバム製作の公式開始日の前日、私はマイケルのシンクラヴィアをスタジオに搬入しました。メインタワーはコントロール・ルームのすぐ外の小さな部屋に設置されました。キーボードと端末はコントロール・ルームに置かれました。これから12カ月間、ここがシンクラヴィアの定住の地になりました。私がシンクラヴィアを設置していると、マイケルが入って来て少し話をしました。ついに次のアルバムのレコーディングを始めるということで、彼は明らかに興奮していました。この時彼が私に言ったことがずっと私の頭に残っています。「このビジネスで成功するカギは、謙虚になることだよ。」

次の日、ブルース・スウェディーンとクインシー・ジョーンズがスタジオに来ました。私はブルースとはすでに会っていました。マイケルは私をクインシーに紹介しました。彼らの振る舞いはとても礼儀正しくありながら、プロフェッショナルでした。私は彼らと共に仕事をすることにワクワクしていました。彼らは音楽業界ではトップクラスのプロフェッショナルでしたし、史上最大の売り上げのアルバム「Thriller」を越えるアルバムを作るために私たちはここにいるのだ、という雰囲気でした。これは大きな仕事になる!

クインシーはシンクラヴィアを使うのが初めてでした。彼が知っていることと言えば、マイケルがデモをシンクラヴィアで作ったということくらいでした。ブルースは映画『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』(原題:Running Scared)の音楽制作で少し使ったことがありました。ブルースとクインシーは何度も一緒に仕事をしていましたので、彼らには彼ら流のやり方というものがありました。プロデューサーとしてのクインシーのやり方は、さまざまなミュージシャンの組み合わせをいろいろと呼び、レコーディングするというものでした。ブルースのやり方はミュージシャンたちのライブ演奏に可能な限り近付けてレコーディングするというものでした。シンクラヴィアはそのような仕事の進め方をまさに変えることになります。

プロフェッショナルとしての私の見解は、私はシンクラヴィアを操作するために参加しているのであり、才能ある人々が作業するのを黙って観察するというものでした。その後の二週間、私はクインシーのプロデュース術、ブルースのレコーディング術を観察しました。

これから12カ月間ほぼ毎日仕事をするメインのレコーディング/プロデュース・チームは、マイケル・ジャクソン(アーティスト、プロデューサー)、クインシー・ジョーンズ(プロデューサー)、ブルース・スウェディーン(エンジニア)、クレイグ・ジョンソン(セカンド・エンジニア)そして私(シンクラヴィア)でした。もちろん他にも一緒に働くミュージシャンや技術者はたくさんいました。お話したいことはたくさんあるのですが、紙面が足りませんので、ここに一部を紹介します。

開始早々のある日、クインシーはお気に入りのセッション・キーボード・プレーヤーのグレッグ・フィリンゲインズをレコーディングに参加させました。クインシーのアプローチは、シンクラヴィアで作ったトラックを、ライブ・セッション・ミュージシャンでもう一度レコーディングするというものでした。クインシーは私に、グレッグのために「Smooth Criminal」のシンクラヴィア・バージョンを聴かせてくれと言いました。その演奏が終わりにさしかかった時、グレッグが、フェイドアウトの部分に何か違うものがあるかと訊きました。「いや、リピートです」と言うと、彼は「OK、やろう!」と言いました。私は最初のサウンドを呼び出し、グレッグが演奏し、ブルースが録音をし始めました。グレッグが曲のすべてのパートを演奏しました…どのトラックもたったのワン・テイクで!ドラムやパーカッション、ベース、コード…全部のパートです!完璧に!でも私が驚いたのは、彼は曲を一度しか聴いていないということです!驚きました!クインシーが真っ先に呼ぶキーボーディストであることもうなずけます。

別の日にはクインシーがベース・プレイヤーのブラザーズ・ジョンソンのルイス・ジョンソンを連れてきました。グレッグが演奏したトラックのベースのパートを、彼にプレイしてもらうためです。最高にノリのいいベースだった!

でもすぐに、これらのトラックをシンクラヴィアに同期させていることなど誰も考えてないということに私は気がつきました。録音したものをシンクラヴィアと同期させるべきだという理由はたくさんあります。もしこのことに注意を払わなければ、近いうちに大変なことが起きる可能性があることに私は気付いていました。私はいつものように黙っているのをやめて、ブルースに説明することにしました。彼は要するに、何もかもがうまくいっていると言いました。したがって私は「OK」と言いました。

私は毎日10:00頃にスタジオに来て夜7:00あるいはもっと遅くまで働いていました。その後マイケルの家まで車で行き、夜中の1:00か2:00くらいまで働いていました。みんな土曜日はウェストレイクにいましたが、日曜日はたいてい休みでした。しかし私は日曜日にはマイケルの家に行き、一日中夜遅くまで曲に取り組んでいました。これが12カ月間の私の基本スケジュールでした。

最初の2週間で一つ面白いことがありました。ブルースは唐突に、前の映画のプロジェクトで一緒に仕事をしたシンクラヴィア・オペレーターがしたことをいろいろと話し、そしてそれがとてもクールで、彼がいかに優れたシンクラヴィア・オペレーターであるかをコメントすることがありました。私にとって、何というプレッシャーなのでしょう!私ができることはただ、それを認識し自分のベストを尽くすということでした。するとある日、またまた特に理由もなくブルースは私の方を向いて「君は○○よりもかなり優秀だね!」と言ったのです。私はとても驚きました!ブルースは二度と彼のことは口に出しませんでした!ワォ!

ある朝、もう一人のクインシーの大のお気に入りで素晴らしいドラマーのジョン・ロビンソンが、彼のオーバーハイムのドラムマシンでマイケルの歌を6曲プログラムして持ってきました。私がそれまでに聴いたことのあるドラムマシンは、機械っぽい音がするものがほとんどでした。でも彼が作ってきたトラックはそうではなかったのです。素晴らしいサウンドでした!最高のノリとリズム感でした!ジョンは「ドラムサウンドはリアルタイムでプログラムし、クリックに合わせてクオンタイズしていないんだ」と言っていました。彼は有名なグループ、ザ・バンドと一緒にツアーに出ることになっているので、何とか間に合ったと言っていました。私たちは彼が作ったドラムのトラックをドラムマシンからデジタルテープに録音しました。その日は私はただ見ていただけでした。次の日、マイケルがそのトラックを聴きにきました。いいサウンドだと私は彼に言いました。彼はそれを聴いて踊っていました。聴き終わると、マイケルもいいサウンドだと同意しまいました、しかし…アレンジが完璧におかしい!ということになりました。ジョンはすでにツアーに出てしまっていたので、やり直すことができません!

ブルースは戸惑っていました。私は「シンクラヴィアに取り込んで、正しいアレンジに変えることができますよ」と言いました。彼が「OK」と言ったので、私はそうしました。ブルースが録音をシンクラヴィアに同期させることの重要さを実感したのはこの時でした。そこで私たちは、すでにやり終えた作業もすべてやり直すことにしました。こうして私たちには、レコーディング手順の確固たる骨格ができたのです。各パーツを再プレイし、音を変える、アレンジを変える…何でもできました。ジョンのドラムマシンの演奏から、リズム感を損なうことなく、息をするようなクリック用トラックすら作れました。したがって、数週間の間、シンクラヴィアは応急処置の「バンドエイド」になっていました。私たちは初めからすべてを録音し直すことで、ふりだしに戻ったのです。

また、初期の頃にライブ・トラックがレコーディングしている時、マイケルがそれらを聴いてはシンクラヴィア・バージョンの方が良いと言っていました。こうしたことが毎回おきていたので、クインシーは彼のやり方を変え、私たちはシンクラヴィアを全面的に使うようになりました。

アルバム製作中には面白い人がたくさんスタジオに訪れました。全員、マイケルかクインシーの友人です。オプラ・ウィンフリー、エリザベス・テイラー、ジョージ・ルーカスなどなど、といった面々です。本当に面白い!

レコーディング開始から6カ月後、クインシーが気分転換にバラードのレコーディングをしようということになり、最高級のセッション・プレーヤーたちを連れてくることに決めました。そのバラードは確か「I can't stop loving you」だったと思います。皆これはいい考えだと思いました。このミュージシャンたちは、確かグレッグ・フィリンゲインズ(キーボード、シンクラヴィア)、ネイザン・イースト(ベース)、ンドゥグ・チャンクラー(ドラムス)、パウリーニョ・ダ・コスタ(パーカッション)だったと思います。彼らはウェストレイクに集まった時に、マイケルがシンクラヴィアを使っていることを知りました。ネイザンは、「誰も呼ばれなかった理由は、君か!」と言いました。面白いことに、ロサンゼルスで真っ先に声がかかるはずのスタジオ・ミュージシャンたちはマイケルがニューアルバムに取り掛かっていることを知っていて、どうして誰もレコーディングに呼ばれないのか不思議に思っていたということです。私は当時彼らからよく思われていませんでした。私が彼らから仕事を盗ったと思われていたからです。LA最高のスタジオ・ミュージシャンたちとの何という出会いだったのでしょう!やれやれ!実際には、自分が他のミュージシャンたちから仕事を奪っていただなんて、思ってもみませんでした。私はただ単に、マイケルの音楽的アイディアを表現するためのクリエイティブなツールとして、シンクラヴィアを使っていただけだったからです。結局のところ、マイケルはシンクラヴィア・バージョンの曲の方を気に入っていたのです。ワォ!

ある日、ジミー・スミスが演奏しに来るとクインシーが告げました。彼はMIDIに改造した自分のHammond B3を、ジミーの演奏用に持って来ることにしました。彼の演奏は、MIDIを通してシンクラヴィアに録音することができました。これにより、彼の演奏を後で修正する、またはサウンド変えるということが可能になります。クインシーは、「ジミーのプレイは最初の2テイクだけがいいので、彼のパフォーマンスを最初に捉えられるようにしてくれ」と言いました。クインシーは正しかった。私は彼の演奏を問題なくシンクラヴィアに取り込みました。彼がスタジオを去った後、Hammondのサウンドの一音一音もサンプリングしました。後で、クインシーは、Hammondの演奏をグレッグのよりモダンなシンセ・ソロとクロスフェードさせることを決めました。このアルバムには、そのバージョンが使われています。

Run-DMCがマイケルとミーティングをするためにウェストレイクに来たことを覚えていています。クインシーは次に来るブームはラップだと思っていたため、マイケルに彼らとコラボレーションして欲しいと思っていたのです。しかし、ミーティング後も何もなかったかのようでした。私は後にマイケルにミーティングはどうだったのかと尋ねました。どうやら彼は横柄な態度で要求が多かったようです。彼らはそのような態度を取るべきではなかったのでしょう!マイケルは彼らの雰囲気はふさわしくないと思っていました。それはともかく、私はマイケルに、ラップをどう思うか尋ねました。彼はあまり好きではないと答えました。彼にとっては十分に音楽的な旋律がない。彼はメロディーや本当の歌唱が好きだったのです。

マイケルは自分のボーカルのハーモニーをダブルまたはトリプルにトラックするのが好きでした。基本的には感情的なインパクトを得ようと、一つのハーモニーのセットを作り上げるのに力を注いでいました。私がそれらをシンクラヴィアに取り込んで、ハーモニーがある箇所すべてに差し込みます。この手順は、同じことを何度もただ繰り返すことで生じる声の負担を低減することにもなります。特にダンス・ミックスでは繰り返しのコーラス部が5分間も続くことがあるからです。

プロジェクトのある時点で、マイケルがなぜか最初に自宅でシンクラヴィアを使ってレコーディングしたものと、サウンドが同じではないと心配するようになりました。彼はブルースと話し合いましたが、彼はマイケルの心配を理解できないようでした。マイケルは大音量で聴くのが好きなのです!!!ウェストレイクでは、音を聴くために彼がコントロール・ルームに入る時は…みんなコントロール・ルームから逃げ出すのです。彼が25,000ワットのスピーカー・システムの音量を最大にするからです!!彼は音楽を「感じ」たかったのです。クインシーは、「Thriller」の制作時にはスピーカーが火を噴いたと冗談を言っていたぐらいです。これはアルバムがヒットする前兆だと思われていました!「Bad」の製作中に、ウェストレイクのツイーター(高音用スピーカー)が一つ壊れてしまったのですよ!

それはともかく、マイケルは音楽の「パンチ」が無くなったしまったと心配していたのです。マイケルはシンクラヴィアで作ったオリジナル・トラックを聴かせるために、私とマネージャーのフランク・ディレオを自宅スタジオに呼びました。違いがあることにディレオは同意しました。マイケルは「Smooth Criminal」で特に違いが大きいと言っていまいした。レコーディングしたものについてはこうした点にそれまで以上に注意が払われるようになりました。

「Speed Demon」では、オリジナルのデモではソロに入る前のブレークの部分に、シンセサイザーのスイープアップのサウンドが使われていました。私は、これではクリエイティブではないし面白くもない、それに歌の内容と関係がないと思っていました。私のアイディアは、それをレーシングカーのギアチェンジする音に置き換えるというものでした。私はそのサウンドをシンクラヴィアに落とし込み、ギアチェンジの音も入っているパッチを作りました。そしてグルーヴに合わせて、レースカーがギアチェンジする音を適切なタイミングで演奏しました。マイケルはこれを大変気に入り、それがこの曲に使われています。

「Smooth Criminal」でマイケルの心臓の音をレコーディングするというのが誰のアイディアだったか私は覚えていませんが、それは面白い計画でした。マイケルはエリック・シェブロン医師に連絡を取り、サンフランシスコのベイエリアからウェストレイクまで飛行機で来てもらいました。シェブロン医師は心臓の音を録音する特別な装置を持っていました。私はマイケルの心臓の音をシンクラヴィアに直接、ステレオで録音しました。シンクラヴィアでそれをよりクリアにするために、私はそれをデジタル処理しました。そして彼の鼓動の早さをデジタルでコントロールすることで、ゆっくりとスピードアップさせました。「Smooth Criminal」のイントロ部分でそれを聴くことができます。

「Smooth Criminal」のレコーディング中にはビデオ用のダンスシーンの撮影も始まりました。曲はまだ完成には程遠い状態でした。メッセンジャーが2時間おきに来て、私がシンクラヴィアで作っていた最新のミックスを受け取っていきました。ビデオの撮影現場でダンスの振り付けをするのに使うためです。

「Bad」の曲では、マイケルはある特定のベース音が聴こえていました。彼はある種の雰囲気があるサウンドを探していたのです。これは少しばかりチャレンジングなことであることが分かりました。私はベースサウンドをたくさん試しました。マイケルはそれらを気に入りましたが何かが欠けていたのです。結局、マイケルが気に入った音を全部まとめて一つのベースサウンドにするというのが解決方法でした。このためには9つの異なるベースサウンドを使いました。シンセサイザーの音、オルガンのベースペダルの音、エレキベースの音などです。ミックスした音はうまくいきました。今この曲で使われているのがこのサウンドです。

マイケルは「Bad」のデモをとても気に入ったので、クインシーに聴かせようと特別に会う約束をしました。クインシーも気に入り、アルバムからのヒットシングルになるだろうと考えました。その後クインシーがCBSの重役たちにこの曲を聞かせ、彼らも気に入りました。そしてマイケルはアルバムのタイトルは「Bad」とするべきだと考えました。クインシーは、よっぽどよいアルバムに仕上がらない限り、批評家連中はそのタイトルで大いに楽しむだろうと言っていました。

ビデオ「Bad」の監督にマーティン・スコセッシを起用した時のことを覚えています。撮影中にマイケルがシンクラヴィアを必要だと言ったら場合に備えて、シンクラヴィアを持ってニューヨークへ行かなければならないかもしれない、と私は突然告げられました。私たちはウェストレイクで(マイケルの家でも)別の曲に取り組んでいたので、ちょっとしたパニック状態になっていました。「クリスのクローンが要る」というフレーズが流行ったぐらいです!同時に2、3か所で私が必要!というのが普通でした。結局、出発することになっていた日の前日、私はウェストレイクに留まるべきだと決定されました。面白い出来事の連続です!

ビデオ「Bad」のラフ編集版には、マイケルがボーカル・エフェクトを歌っているシーンがいくつかあり、それに合ったサウンドがないことが分かりました。例えば、彼が良くやる高音のoooooo!をしているシーンです。そこで私は、ビデオの映像と合うように、他のレコーディング音源の中からそのようなoooooo!をいくつか探し出して、「Bad」のトラックの適切な場所にその音源を落とし込むという作業をやらなければなりませんでした。その次に、「Bad」のビデオにはイントロがないということにマイケルが気づきました。曲のイントロを作る仕事は私のところへ回ってきました。私はこの作業を自分のスタジオでシンクラヴィアを使って行いました。ジェリー・ヘイが「Bad」で素晴らしいホーンのアレンジを終わらせたばかりなので、この曲の他のセクションで使っているホーンのヒット音をサンプリングしようと私は考えました。そして、それらのピッチを変え、パーカッションのヒット音とメタリック音をミックスし、この合成音を一つのキーボードのサウンドとして使いました。そして「Bad」の最初に聞こえるイントロを私がプレイしたのです!

マイケルは「Bad」という歌のアイディアを気に入り、次のツアーを「Bad Tour」と呼ぶことに決めました。

マイケルは「Smooth Criminal」のレコーディングに満足できなくなりました。そこで私たちは再びレコーディングしました。マイケルは前のものより気に入りましたが、まだ納得していませんでした。このストーリーは後ほど書きます。

レコーディングを開始してから1年近くが過ぎていたため、CBSレコードはアルバムを完成させたがっていました。そのため、突然ウェストレイクは慌ただしくなりました。2つの部屋で同時にアルバムの仕上げ作業が進んでいました。

アルバム製作も終わりが近づいてきました。私は多くの人から一緒に仕事をしないかと声をかけられました。スティーヴィー・ワンダーやピンク・フロイドなどもその中にありました。私の仕事のスケジュールにいくらか余裕ができてきたため、そういう人たちのプロジェクトで仕事をする時間があるかもしれないと私は思いました。それをマイケルに言うと、彼は「だめだ」と言いました。彼は私を、アルバムの完成だけではなくビデオやツアーの仕事でも必要としてくれていたのです。彼は以前にはそういうことを言ったことがなかったので、私は他の仕事は全部辞退しました。

マイケルのツアーはいつ始まるのかと私はフランク・ディレオに尋ねました。彼は、3か月後に日本で開幕するために動いていると言いました。それで私はマイケルに、時間があるのでツアーの音楽の準備を始めるべきだと言いました。彼はノーだといいました。アルバムを完成させるだけではなく、よいアルバムにしないとツアーはないと言いました。私はOK…問題ない、と思いました。ひと月が過ぎました。ディレオが言っていた日が近づいてきました。私は再び、ツアー用の曲の準備に取り掛かるべきかどうか尋ねました。彼は今回も同じ答えでした。マイケルは私を忙しくさせていましたが、ツアー用の仕事をする時間は多少ありました。それに私はいつでも早めに準備に取り掛かるタイプなのです。私は、マイケルが兄弟と回った「Victory」ツアーのバンドは、3カ月間リハーサルしていたのを知っていました。ツアーについて何も聞かされていないので、フランクが言っていたように、たった8週間後に日本でツアーが始まるはずがないと思っていました。

1987年6月29日、マイケルの家から帰宅し、ちょうど夜11時のニュースが始まる時間だったので、テレビをつけたことを覚えています。すると突然、発表があったのです。「マイケル・ジャクソンは1987年9月12日に日本で開幕するワールドツアーを発表!」私はマイケルのもとで1年半近くも毎日働いてきました。そして、ツアーのことを夜11時のニュースで知ったのです!ワォ!ということは、史上最も有名なシンガーとの史上最大となるであろうツアーの準備を、8週間でしなければならない!バンドはない、ミュージシャンもいない…何もない!

次の朝、私の電話は鳴りっぱなしでした。みんなパニックになっていたのです!

来月は、シンクラヴィア、音楽、マイケル・ジャクソンのストーリーを締めくくります。マイケル・ジャクソンのストーリー:「Bad」ワールドツアーです。

来月また「イベントホライゾン」でお会いしましょう!

クリストファー・カレル
2015年4月28日

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原文:
THE EVENT HORIZON – “SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART 2
The Making of the “Bad” Album
by Christopher Currell
April 28, 2015

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※日本語バージョンを作成するにあたり、石井理英子様(MJJ FANCLUB JAPAN)に翻訳のご協力をしていただきました。


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