“SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART 4
「シンクラヴィア、音楽、マイケル・ジャクソン」 - パート4 by クリストファー・カレル

Chris Playing SynthAxe with MJ

Original Article by Christopher Currell

"BAD" ワールド・ツアー - オン・ザ・ロード

パート3では、「BAD」ツアーでたくさんのことを経験し、本にしない限り、さまざまな出来事を紹介することは不可能だと書きました。したがって、ツアーでのパフォーマンス中に関する私の経験のハイライトを一部取り上げることにします。それでは始めましょう…

日本ツアー:1987年9月12日〜1987年10月12日

日本へ行くのは初めてでしたし、このようなバンドで演奏したこともありませんでした。まさに、信じ難い体験が立て続けに起きている状況でした。日本で計画されていた最初の9公演(9月12日開幕)は2時間半でソールドアウトとなりました!要望が大きかったため、5公演が追加されました。トラック22台分のツアー用機材やマイケルの取り巻き132人を運ぶためにジャンボのチャーター機が使われました。ステージには700個の照明、100個のスピーカー、40基のレーザー、鏡が3つ、そして24x18フィートのスクリーンが2個使われました。後にレーザーのショーも追加されました。フランク・ディレオは、この時点でショーを一晩開催するのに、50万ドルのコストがかかると言っていました!

会場となる球場をマイケルが使えるように、プロ野球の日本シリーズのプレイオフスケジュールさえも変更になりました!前代未聞のことです!アメリカでいうなら、ワールドシリーズのスケジュールが変更になるのと同じことです!

成田空港に到着すると、600人以上のジャーナリストやカメラマン、そしてファンが出迎えてくれました。バンドが税関を通過した後、チャーターしたバスに乗り東京へ向かいました。バンドは東京の赤坂プリンスホテルに宿泊することになっていました。

マイケルのチンパンジーのバブルスは別の飛行機に乗りましたが、成田に到着した時には300人以上の出迎えがありました。驚いたことに、バブルズは私たちと一緒にバスに乗って、東京まで行くことになっていたことです!彼は手すりやシートの間をターザン・スタイルで飛び回り、いつも通り大騒ぎでした!でも、バンドメンバーはそれが楽しくて、ホテルまでの道中はずっと笑っていました!

このツアーはペプシがスポンサーでした。ツアー関係者は公にはコークを飲まないよう厳しく言われました!ペプシから送られた担当者が実際にツアーに同行していて、プロモーションがきちんと行われるよう確認していました。マイケルはペプシ担当者の対応をするために、専属の人を割り当てたほどでした!どのホテルルームにもペプシ製品のパックがたくさん置いてありました!私はペプシを飲まないのでホテルのスタッフにいつもペプシをあげていました。

運営チームは、私たちの最初のショーについて多少神経質になっていました。その理由は、全体リハーサルを一度もやっていなかったからです。バンドは興奮してはいるものの集中していました。私たちはステージに上がりました。会場にはたくさんの人が来ていました!ショーは問題なく終わり、運営チームは安心していました!面白いことに、日本のオーディエンスはとても控え目であるため、オーディエンスを盛り上げるために私たちはかなりエネルギーを使わなければなりませんでした。いずれはジャンプしたり歓声を上げてくれました!後で知ったことですが、オーディエンスは座席に座って騒がないように言われていたのです。さもなくば退場だと!Wow!

Michael on stage Bad Tour

ある晩のショーの後、バンドはホテルへ帰るバスの中にいました。スタジアムから出る時にバスは急な角を曲がらなくてはなりませんでしたが、車が駐車していて曲がれませんでした。公式の白い「BAD」Tシャツを着た日本人ツアースタッフが20人ほど車の周り集まって来て、どうするか話し合っていました。バンドメンバーは、オーディエンスが出てくる前にスタジアムから出なければなりません。私たちは集まったスタッフたちをバスの窓から見ていました。突然彼らはその駐車している車を囲み、かがんだかと思うと車を持ち上げて動かし、通り道を開けたのです!バスがその車を通り過ごすと、今度はスタッフたちがその車を再び持ち上げて、元に戻していました。全く同じ場所にです!私たちはみんな大爆笑でした!

オーストラリア・ツアー:1987年11月13日〜1987年11月28日

メルボルンでの最初のショーは素晴らしかったです!オーディエンスは日本よりも随分とエネルギーがありました。一曲目から立ち上がって大歓声です!声援がとても大きくて、曲に入るカウントが聞えないほどでした。次のショーまでに、カウントが聞こえるように変えなくてはなりませんでした!

次の日、マイケルは新聞の第1面をカラー写真で飾りました。それを報じたレポーターは一曲ごとに詳しく書きました・・・基本的にはコンサートは素晴らしかったと何度も書いているのですが、バンドとマイケルのパフォーマンスは「良すぎる!」と書いていました。どういう意味でしょうか?そしてそのレポーターは私たちの音楽を「ロボポップ」と呼ぶことことに決めたのです!私たちのパフォーマンスが完璧すぎると考えたのでしょう。実は、映画「ロボコップ」がちょうどオーストラリアで上映中で、とても人気となっていたのです。なんという世界!

ビリー・ジョエルがワールド・ツアー中で、ちょうどメルボルンでコンサートをしていました。彼は同じホテルに泊まっていたのです!コンサートが終わったある晩、私と数人のバンドメンバーがホテルのラウンジに行くと、ビリーと奥さんのクリスティ・ブリンクリーがそこにいたので、私たちは話をし始めました。私はクリスティが保守的な人だとずっと思っていたのですが、彼女はマイケルのファンだったようで、夜が更けていくと彼女はだんだんリラックスしてきて、マイケルをマネしてダンスをし始めたのです。股間を掴む有名なムーヴまでマネしたのですよ!みんなで大笑いしました!2人はとてもいい人で、私たちをコンサートに招待してくれました。バックステージにも入れてもらいました。本当に楽しいことがたくさんありました!

マイケルはときどき、バンドには何も言わずに何かやることがありました。その一つがブリスベンでの出来事です。アンコールで「Bad」をプレイしていたのですが、突然、マイケルがスティーヴィー・ワンダーをステージに連れてきたのです!私たちは彼がオーストラリアにいることすら知りませんでした!彼は「Bad」をマイケルと共に歌い、オーディエンスは大興奮でした!バンドも完璧に驚かされましたが、私たちは素晴らしい演奏をしました!

Michael and Stevie

5公演を終えて、アメリカへ戻る日になりました。次のリハーサルを始める前のクリスマス休暇です。

クリスマス休暇

私は家族とクリスマスを過ごすためにミシガン州サギノーの故郷に帰ることにしました。母には「帰ることは誰にも言わないで欲しい」と言ってありました。私には平穏と静寂が必要だったのです。私は2年半、マイケルとノンストップで仕事をしていたのですから!

家に着いてみると、母はみんなに私が帰ることを言っていたようで、両親の家でパーティーを開くことになっていました!私は少し苛立ちましたが、両親は私が成功したことを誇りに思っていたようです。だからそれでOKなのです。

数日後、もうクリスマスだったかもしれません…大雪でした。古い友人が電話をかけてきて、夜に地元のホテルのクラブに行かないかと誘ってきました。デトロイトから来た、いいバンドが演奏しているとその友人は言っていました。そのグループはR&Bファンクのバンドで、アルバム「Bad」から2曲を演奏しました。「The Way You Make Me Feel 」と「Bad」です。私が関わったアルバムの曲が、チャートでヒットし、それらの曲をクラブのバンドが演奏しているのを聴くのは興味深いことでした。

バンドが休憩に入ったので私はトイレに行きました。バンドのドラマーがいました。私はそのドラマーに、彼らのバンドのサウンドはいいと思うと言いました。彼は私の黒い超ロングヘアに気がつきました。

彼は、「君はバンドでプレイしているのかい?」と言いました。
私は「おやおや、来たか…」と思い、「そうだ」と答えました。
「僕が知ってるバンドかな?」と聞かれたので、「たぶん」…と控えめに答え、スムーズに出ていこうとしました。が、そうはなりませんでした。
「誰のバンド?」
「マイケル・ジャクソンだよ」
反応なし…沈黙です。
そして突然ピンときたようで…「マイケル・ジャクソン?」
「マイケル・ジャクソン?」と彼はもう一度言いました。私が言ったことを理解したようです。
「そうだよ」と答えました。
私が言ったことを理解するのに数秒はかかったようでした。
「わかったぞ、見覚えがある…君は今月のキーボード・マガジンの表紙になってるよね!」
「そうだ」と答えました。

彼は大興奮し、私に待っているように言いました。そしてトイレを出て行ったのです。30秒くらいして、バンドのメンバー全員がやって来ました!トイレの前の廊下に全員集合です。私に会って彼らは大興奮でしたが、なぜ私がミシガンのサギノーにいるのかと不思議がりました。私は休暇で実家にいるのだと説明しました。彼らが私に助言を求めるので、彼らが「The Way You Make Me Feel」には2つのベースラインがあり、そのうちの1つしか演奏していないと言いました。私は正しい演奏のしかたを教えました。彼らは私に感謝し、次の演奏をするために去って行きました。私は彼らの演奏が全部終わる前にその場を後にしました。

さらにリハーサル

ツアーの次のレグ(後半)に向けて、マイケルはアルバム「Bad」からもっと選曲したいと考えていました。マイケルから追加曲のためにシンクラヴィアのプログラミングをするよう指示がありました。私はプレ・リハーサルには1回か2回しか参加できませんでした。最初の仕事は、「Bad」アルバムで私が創った音を、シンクラヴィアにプログラミングし、ドラム、ギター、ベース、キーボードを除いたパートを全て演奏することでした。プレッシャーどころではないです!!!私は1週間くらい、スタジオでシンクラヴィアのプログラミングに取り組んでいました。またマイケルの家のスタジオへ行って、アルバム「Bad」で使われているマスターテープからいろいろなサウンドを取ってくる必要もありました。多くのサウンドはすでにシンクラヴィアに取り込んでいました。この時点ではグレッグ・フィリンゲインズが正式に音楽監督になっていたので、リハーサル後に私のスタジオへやって来て、曲のアレンジやテンポ、誰がどのパートを演奏するかなどの情報を教えてくれました。また進み具合を聴けるよう、リハーサルの録音もしてくれていました。

私にとっての最大のチャレンジは、バンドの演奏のテンポがアルバムに比べて速くなっているのに合わせるため、サウンドとシーケンスを修正することでした。当時、ピッチ(音の高さ)を変えずにサウンドのスピードを変える技術はまだありませんでした。私はシンクラヴィアを駆使して、外科手術のように、演奏の一部を音符ごと、音節ごとに切り刻み、それぞれをシンクラヴィアに個別のトラックとして取り込みました。それをすることで、各パーツの実際のピッチの変化に気づくことなく、テンポをスピードアップすることができるのです。この作業はとても頭を酷使する作業で、それに加えて完了させるための時間があまりありませんでした。プログラミングの最後の3日間は寝る時間さえありませんでした!!!

ショーの中でマイケルが休めるようにブレークが設けられることを知っていたので、その部分でバンドメンバーがそれぞれ何かプレイする時間になるのでしょう。バンドは非常に才能豊かなメンバーなので、何かソロをやることにしたため、私は、自分のソロは何か違ったものにしよう、テクノロジーを有利に活用しようと思いました。「ショーの中にダンス・リミックスのようなパートを作るのはどうだろう」と私は考えました。私はシンタックスを持って霧の中から歩いて出てくる。そしてリッキーのドラムだけにのせて、風変わりなサウンドをクールなグルーヴで演奏しよう。私は爆発音やガラスの割れる音、声、クラクションなどをサンプリングしました。私のソロは原爆の爆発音のサンプリングで終えました。全てのサブ・ウーファーを猛烈に使い切ろうと思いました!マイケルは後で、私のソロが一番気に入っていると言ってくれました!イェイ!

全てを一緒にまとめなければならない日がやって来ました!私専属のテクニシャンのミッチが私のスタジオにやって来てハードドライブを運び出し、リハーサル・スタジオでマイケルのシンクラヴィアをセッティングしました。私は音源の読み込みを行いました。バンドが姿を見せました。

Chris synclavier-backstage

クインシー・ジョーンズとダニー・オズモンドもいました。リッキーが最初の曲のカウントダウンをしました・・・ワオ!!!サウンドは素晴らしいものでした! バンドのサウンドにシンクラヴィアの追加サウンドが加えられたのを聴いて、バンドは驚いていました!私にとっても、バンドのサウンドを聴くのは初めてでした!クインシーはサウンドが素晴らしいと言い、ホーンが見事にビシッとしていると意見を言いました。そして全ての機材はフロリダのペンサコーラ・シヴィック・センターへ運ぶために解体されました。ツアー前半のリハーサルはユニバーサル・スタジオでやりましたが、今回は空いていなかったため、マイケルは使うことはできませんでした。したがって次のリハーサルはペンサコーラ・シヴィック・センターで行うことが決まったのです。

アメリカ・ツアー:1988年2月23日〜1988年5月6日

ペンサコーラに到着し、海岸の新しいホテルに滞在です。まだ公式にはオープンしていないという新しさでした。ビーチがとても面白かったです。全て黒い砂浜でした。

私たちは新曲のリハーサルに時間を割き、細かい部分を練習しました。マイケルは1週間くらいで合流することになっていましたが、現れませんでした。バンドは十分に曲のリハーサルができていました。時間があったので「Speed Demon」のリハーサルをしました。いいサウンドでしたよ!マイケルが気に入って歌ってくれればいいなと思いました。

運営チームから数日のオフをもらいましたが、運悪く私は体調を崩してしましました。数日間ずっとベッドの上でした!食べることすらできませんでした!

リハーサルを再開した時、私はひどく弱っていました。そして、マイケルが到着してシヴィック・センターに向かっていると発表がありました。私たちは、彼が到着した時には新しい曲を演奏しようと決めました。マイケルがシヴィック・センターに入って来ました。エンタテイメント・トゥナイトのメアリー・ハートと一緒に、2列になった大勢の制服警官とテレビカメラを従えて…なんという登場でしょう!メアリー・ハートがマイケルをインタビューしている間、私たちは演奏していました。

その日の遅く、マイケルのドレッシングルームでの内輪のミーティングでマイケルは、「The Way You Make Me Feel」のサウンドは素晴らしい、「Smooth Criminal」はアルバムよりもいい、もう一度レコーディングする必要がある!と言ってくれました。彼は「Speed Demon」も気に入っていたのですが、私の前向きな説得にもかかわらず、マイケルは合わせる振付がないので、ノーと言いました。残念…。

マイケルはステージでのイリュージョン(マジック)の練習するためにジークフリード&ロイを連れてきていましたが、それは見ていて大変興味深いもので、ショーに新たな側面を加えるものでした。

Chris on stage - Bad Tour

このリハーサルのためのブレークの後、私たちはアメリカ・ツアーを始める準備が整っていました。1988年2月23日、ミズーリ州カンザスシティでスタートです。BADツアーはいくつかの新曲と新しい振付、新しいステージを付け加えて、今までよりもかなり大掛かりとなりました。

野球場にあるタイプの電光掲示板がステージ上方に設置され、ムーンウォークやスピンをするマイケルの足のアニメーションが表示されるようになりました。これでショーが始まるのです。私はマイケルの足音をサンプリングして、シンクラヴィアに取り込まなければなりませんでした。有線TVでマイケルの足のアニメーションを見ながら、彼の足に会わせて足音をシンクラヴィアのキーボードでプレイしました。とてもクール!

カンザスシティでの最初のショーでは、電光掲示板を支える構造材の一部が重みで崩れてしまいました。天井から吊るされていたスピーカー・システムや電光掲示板の重量が、ほとんどの屋内会場の重量制限値を超えてしまっていたのです!電光掲示板はそのままにして、スピーカーの一部を取り外すということになりました。私はこれには反対でした。なぜなら、サウンドの方が重要だと思ったからです。でもこのことについては何も言う権利がありませんでした。まあ、仕方ないですね!

カンザスシティでの最後のショーの一時間くらい前、私はマイケルのドレッシングルームに呼ばれました。次のニューヨークでのショーまでに1週間以上あるから、朝にニューヨークへ飛んでザ・ヒット・ファクトリーで「Smooth Criminal」を再びレコーディングして欲しいと彼は私に言いました!全てを手配できるよう全員に伝えて欲しいと彼は私に言いました。もちろんみんなパニック状態です!私専属のテクニシャンのミッチは数日間家に帰る計画でしたが、それをキャンセルしなくてはなりません。シンクラヴィアはショーの後、トラックから取り出して別便でニューヨークへ送らなければなりません!マイケルはいつも私にそのようなことを連絡するよう頼むので、マネジメントは私のことがあまり好きでなかったと思います!

私がニューヨークのザ・ヒット・ファクトリーに着くと、ミッチとブルース・スウェディーンがいました。シンクラヴィアはすでにセッティングされていて準備ができていました。ブルースは「Smooth Criminal」に取り組めるよう曲を呼び出してくれていました。彼は私の方を向いて言いました。「僕はもう既に2度レコーディングしたよ。マイケルが何をどう聴きたいのか、僕にはわからない。」マイケルはスタジオに来ることになっていましたが、気が変わったのです。彼は友人たちと遊びに行ってしまいました。私はブルースに、マイケルが聞きたいものがわかると言いました。そしてブルースは、「じゃあ、君がミックスしてくれ」と言いました。

私たちはシンクラヴィアを再びレコーディングし、私が曲をミックスしました。マイケルは自分のペントハウスにいるということだったので、ファイナル・ミックスを彼に聴かせるために、テープレコーダー、アンプ、スピーカーをペントハウスまで運びこまなければなりませんでした。新しいミックスにマイケルがどう反応するか、みんながナーバスになっていました。私としては、彼の家で彼と一緒に仕事をしていたので、彼が気に入るようなレコーディングになった自信がありました。たくさんの機材をレンタルしてマイケルのペントハウスに送る必要がありました。彼のペントハウスには天井が高いダンス・スタジオがあったため、私たちは機材をそこに設置しました。マイケルが入って来たときには全ての準備が整っていました。

彼はハローと言い、曲を聴きたいと言いました。ブルースが再生を始めました。すぐにマイケルが踊り始めました!これはよい兆候です!彼は最初から最後まで踊っていました。そして、「すばらしい!こうであるべきサウンドだね!」と言いました。そして彼は回れ右をして去って行きました!みんなホッと一息です。このミックスは、アルバムの後のプレスで使われました。基本的に、最初のバージョンよりもパンチがあります。でも、このリミックスに私のクレジットは表記されませんでした。

1988年3月3日、マイケルはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでプライベート・コンサートのパフォーマンスをしました。マドンナがステージの影から私の演奏を見ていたとテクニシャンのミッチが教えてくれました。彼女は私がシンクラヴィアで何をしているのか興味を持っていたようです。これは面白いことだと思いました。ビリー・ジョエルも来ていて、 彼と挨拶をして、シンクラヴィアについて少し話をしました。ポール・シェイファーとトゥナイト・ショー・バンドもバックステージに来ていました。アース・ウィンド・アンド・ファイアーのメンバーも。WOW!!

Chris at Madison Square Garden

BADツアーでの経験でもう一つ面白いことを覚えています。コロラド州デンバーでのことです。初日でした。ダンス・セグメントの時、私はターンが早すぎてギックリ腰になってしまったのです!問題なくショーを終えることができましたが、痛みがありました。ショーの後、ドレッシングルームで何が起きたかを説明しました。衣装係の一人がマッサージ師でもあったので、マッサージをしてくれると言いました。30分ほどマッサージをしてもらって、私たちはホテルに戻りました。まだ痛みがあったので、私は服を着たまま寝てしまいました。

次の日の朝、私は動くことができませんでした!誰かを呼ぼうとベッドの脇にある電話に手が届くまで、15分もかかりました!夜にはショーをやらなければならないので、私は少し慌てました。運営チームが部屋にやってきました。私はひどい状態で、痛みがありました。彼らは僕を見て、「一体どうするんだ?」と言いました。事態は深刻です。ショーでの私の役割は非常に重要だったのです。もし私がショーをやれなければ、延期しなければならないでしょう!何億の大金が失われ、おそらく訴訟沙汰です。プレッシャーがないわけありません!

他のメンバーが慌てずに自分の仕事ができるよう、楽観的でいることが重要だと考えました。私は運営チームに、もしカイロプラクターを見つけて、少なくとも私が起き上がって右足を床から5センチは持ち上げられる(EFXのペダルを踏むため)状態まで、治療をしてもらえれば、ショーはできると言いました。彼らは了解したと言い、また、ステージの機材を調整するためにミッチに知らせると言いました。

週末だったため、カイロプラクターを見つけるのは容易ではありませんでした。しかし、1時間もしないうちに来てくれました。彼が私の体をベッドから診療台へ移す時だけで、気を失いそうになりました!彼は一日中治療をしてくれて、午後遅くには起き上がって足を5センチ持ち上げられるようになりました!救急車が到着して私を会場まで運んでくれました。私は凸凹ありカーブありのこの道のりを生き延びられないかもしれないと思いましたが、そんなに悪い道のりではありませんでした。

救急車はアリーナの中まで入って、ケータリングのそばに止まりました。バンドメンバーやクルーたちが過ごすスペースです。マイケルのセキュリティ・チームの一人が私を持ち上げて車いすに座らせてくれました。私たちはすぐにステージに向かいました。セキュリティの一人が車いすを掴んで、車いすごと私をステージの上に持ち上げてくれました!ミッチは、車いすからプレイできるように、全ての調整をしてくれていました。ショーをやるのに申し分ありませんでした。

その後、誰かにケータリング・エリアまで押してもらいました。バンドメンバーの数人が私を見て慌てました。「一体どうしたんだい?」私は彼らにいきさつを話し、ショーは問題なくできると伝えました。マイケルは知っているのかと聞かれました。誰かが彼に言ったのかどうか、私は知りませんでした。

少しして、誰かが私をマイケルのドレッシングルームのところまで連れて行ってくれました。ショーの始まる直前には、全バンドメンバーがマイケルのドレッシングルームに集まり、祈りをささげ、そしてエネルギーと集中力を高めるために情熱を結集し声援するのです。これは毎回行う習慣になっていました。なので、私はマイケルのドレッシングルームの前の廊下で車いすに座って待っていたのです。足音が聞えました。マイケルの弁護士のジョン・ブランカでした。ブランカについて一つ言えることは、彼は仕事の鬼で、私は彼が笑ったところを見たことがありません。彼は私を見るなり言いました。「一体どうしたんだい?」即座に私は言い返しました。「フランク・ディレオに給料を上げてくれと頼んだんた!」私を見るブランカの顔に笑みが現れ、笑い始めました。そして笑いながら歩いて行ってしまいました。

間もなくマイケルのドレッシングルームのドアが開いて、マイケルの専属ボディガードのチャッキーが出てきました。彼はとても大きいのですが、優しい男で、常にタキシードとシルクハットといういでたちでした。シュールなのです!それはともかく、彼は私を見て「一体どうしたんだい?」と聞きました。私は今度も「フランク・ディレオに給料を上げてくれと頼んだんだ!」と答えました。彼は大笑いしました。いきさつを話して、ショーをやるには問題ないことを告げると、彼は「マイケルは知っているのかい?」と尋ねました。私は「わからない」と答えました。チャッキーは「ちょっと待って」と言ってドアを閉めました。数秒後、マイケルがドアを開けました。彼はとても驚いたようでした!どうも運営チームはマイケルに伝えるのをすっかり忘れていたようです。マイケルは「一体どうしたんだい?」と言いました。私はまたしても「フランク・ディレオに給料を上げてくれと頼んだんだ!」と言いました。マイケルは大笑いでした。彼はドレシングルームの中まで車いすを押してくれました。私は彼に、いきさつを話し、ショーをやるには問題ないことを話しました。

数分後、バンドメンバーがやってきました。この事態を知っている人もいましたし、知らない人もいました。私は問題ない、ショーはできると簡単に説明しました。実際には痛みはかなりありました。私たちは祈りをささげ、団結しました。でもこの時は特別でした。グレッグ・フィリンゲインズが、私がこの状態でショーをやれるのなら、他のメンバーはショーをサポートするために全力を尽くすべきだと言ったのです。そんなことを言ってくれるなんて素晴らしいです。

早めにステージへ行くと、会場専属の医師に迎えられました。いや、襲われたと言った方が適切かもしれません。彼の仕事はそれまで退屈だったことは明らかです。なぜなら、診療すべき患者がいるかもしれないととても興奮していたからです。彼は、「大丈夫、あらゆる痛み止めを揃えています。モルヒネも」といいました。私は「いや、薬はいりません」と答えました。「ああ、そうですか。でも必要ならあらゆる痛み止めを揃えていますよ、モルヒネも!」「ですからいりません!」なんというヤブ医者!彼は、たくさんの薬を使って診療できずにがっかりしたようでした!「必要なのは背中を冷やす氷です。大量に」。彼は氷を私に渡して言いました。「もし必要なら…」。WOW!

私は問題なくショーをやりました。実際、私は座っていて、振付も一切する必要がなかったので、アリーナの最高の席に座っていたのです!

数日後。コネチカット州ハートフォードのショーで、私は背の高いスツールに座っていました。次の日の夜はそのスツールをただ支えるために使っていましたが、立つことはできました。そして3日目の夜はスツールを全く使う必要がありませんでした。3日目の晩のステージへ向かう途中、クルーの一人が、「だんだん良くなっているね!」といいました。「どうしてそう思う?」と聞くと、「毎晩まっすぐ歩けるようになってるよ!」って言われました。

ミネアポリス公演の時のことです。プリンスの故郷です。彼は自分とスタッフのために最前列の席を大量に買っていました。プリンスにはルールがありました。公の場の時は、バンドメンバーやその他の人はプリンスのみを見ていなければならないのです。なぜなら、彼は、そう…プリンスだから!後でわかったのですが、シーラ・Eはグレッグ・フィリンゲインズの友人で、プリンスのバンドでドラムとボーカルをしていました。ショーの始まる数時間前、会場でグレッグがシーラ・Eを見かけて声をかけましたが、彼女は彼を全く無視しました。プリンスと一緒にいたからです。これにはグレッグは苛立っていました。彼はこのような態度はばかばかしいと思い、バンドメンバーにこの出来事を話しました。

私はアリーナの楽屋にあるメーク/衣装エリアでブラブラしていました。バンドや衣装係が散らばっていて、それぞれメークや衣装の最後の調整をしていました。突然、プリンスとボディガード、それにシーラ・Eがやってきました。みんな彼らを見ていました。そこで、私はプリンスの演技を吹き飛ばそうと思いました。

これがその写真です。私は完全に衣装を身にまとい、大きく膨らんだヘアスタイル、チューブもぶら下がっていて、太ももまであるゼブラ・ブーツを履き、Kissのようなメイク、そしてキャプテンEOのようなルックスでした。私は壁に寄りかかり、挑発的に腕を組んでいました。それに私は背が高いのです!みんな見ていました。3人は私のそばを歩いて通り過ぎようとしています。60センチくらいの距離です。私は真面目な顔でプリンスを見て、言いました。「よう、ホームズ、調子はどうだ?」(ホームズは黒人の間で使われる仲間という意味のスラング)彼はゆっくりと振り返って私を見ました。笑い出しそうなのが見えましたが、彼はクールな様子を維持し続けました!バンドは大爆笑です。プリンスとボディガードとシーラ・Eは歩き続けました。もう少しで彼を笑わせられるところでした!まあ、いいか!

Price and Shiela E.

ヨーロッパ・ツアー:1988年5月23日〜1988年11月10日

次はローマです!フラミニオ・スタジアムに着くと、武装した兵士がスタジアムを囲んでいるのを見て驚きました。どうもデヴィッド・ボウイがコンサートをやって、暴動が起きたようです。警察は暴動は二度とご免だと思ったのでしょう!空港で銃を持ち犬を連れた兵士を見ましたが、スタジアムでも同じでした!あの光景は、音楽をやるのにはふさわしくないと思いました。とても奇妙な経験です。

トリノだったかバーゼルだったか…日程も場所もあいまいになり始めた頃、面白い経験をしました。ショーが始まる1時間くらい前のことでした。私は一人でぶらついていました。ショーの前に精神を整えるためによくやっていたことです。私はスタジアムの地下にある離れた場所にいました。マイケルのドレッシングルームはそれほど離れていませんでした。とても静かで、周りには誰もいませんでした。

突然、声と足音が聞えました。角を曲がってエリザベス・テイラーが取り巻きを伴ってやってきました。ユニバーサル・スタジオで「Moonwalker」を撮っている時にマイケルが私たちを紹介してくれていたので、彼女は私に気がつきました。彼女は道に迷ってマイケルのドレッシングルームを探していたのです。私は彼女らをマイケルのドレッシングルームへ連れて行きました。私がノックをするとマイケルは彼女たちを中へ入れてドアを閉めました。私はリラックスしに、元の静かな場所へ戻りました。

MJ, Elizabeth Taylor, Sophia Loren

数分後、誰かが歩いてくる音が聞こえてきました。今度は一人の足音です。角を曲がって来たのは、私が今まで会ったことがある人の中で最も美しい女性でした!ソフィア・ローレンです!たぶん私はポカーンと間抜け面で突っ立っていたと思います。彼女は私を見て、マイケルのドレッシングルームがどこか知っているかと礼儀正しく尋ねました。もう一度、私はマイケルのドアのところまで連れて行きノックしました。彼がドアを開け、ソフィアが中に入り、ドアが閉まりました。WOW!これは現実に起きたことなのかな?と思ってしまいました。

次の日の新聞のヘッドラインには、ずっと昔にエリザベス・テイラーとソフィア・ローレンは仲違いをして、それ以降口をきいていなかったと書いてありました。どうもマイケルが彼女たちの仲違いを修復して友達同士となったということのようです!面白い!

ベルリンの壁のそばのドイツ国会議事堂でも演奏しました。ここはローマよりも奇妙でした。ベルリンの壁に沿って武装した兵士が配置されていました。東ベルリンは、壁から1マイルほど離れた場所で独自のコンサートをやることで、私たちの演奏によって壁に人々が群がり、亡命を試みようとすることを防ごうとしたのです。ショーの間、数人は実際に脱出しました!一人の女性は壁の間を走っているときに、東ベルリンの警備兵たちに見つかりました。兵士らは彼女を銃撃する準備を実際にしていたのです!彼女は撃つな、子供と一緒だ、と叫び始めました。テレビカメラが彼女を撮っていたので、兵士らは彼女を行かせました!このような出来事が私たちの周りで起こっていました。私たちがやりたかったのは、ただ単に音楽を演奏するということだけだったのです。世界はクレイジーです!

ロンドンのウェンブリーでの7公演の最初の公演で、マイケルは観客動員のギネス記録を更新しました。全公演トータルで50万4,000人のファンを動員したのです。ジェネシスが持っていた記録を破りました。チケットの需要は150万人で、72,000人収容の会場の20回分以上になります。バックステージではロビン・ウィリアムスとエリック・クラプトンに会いました!

古い友人で当時エリックのバンドでベースを弾いていたネイサン・イーストが、ショーの後のディナーで話しかけてきました。彼はエリックと一緒に私たちのコンサートを観たそうです。私がシンタックスのソロをやった時、エリックは興奮して立ちあがり、「彼は一体何をしているんだ?」とネイサンに聞いたそうです。驚きましたよ!私のソロがエリック・クラプトンを興奮させたらしいのです。クール!!(ウィンク!!)

Chris and Eric Clapton

オランダ・ロッテルダム公演でのことです。私はホテルの自室で退屈して座っていました。ホテルの前には数百人のファンが待っているので、出かけるのは勧められない状況でした。ホテルの食事にも飽きていました。2ブロック先にマクドナルドがあると教えてもらいました。私はマクドナルドまでいちかばちか行ってみようと決めました。

考えてみてください。当時私の髪は腰よりも長く、どう見てもミュージシャンでファンのターゲットでした。私はホテルのスタッフに、どこか裏口はないかと尋ねました。彼らは狭い路地へ通じるドアを教えてくれました。ホテルの脇道へ通じる路地です。問題は、大通りを横切って1ブロック下ってマクドナルドへ行かなければならないということです。見られずに大通りを横切ることができれば、万事うまく行きそうです。横断歩道はファンの集まっているところからは1ブロック離れていました。急いで渡れば気付かれないだろうと思いました。

大間違いでした!通り半分ほど渡ったところで群衆は私に気づき、叫び始めました。突然ファンたちは暴徒と化し、私を追いかけ始めたのです!私はこれ以上ないくらいの速さでマクドナルドへ走りました!私は店内に駆け込んでカウンターまで行き、裏口を使わせてくれと慌てふためいて頼みました。店員たちは驚きつつもどちらへ行けばいいか指差してくれました。私は走って裏口から出ることができました。暴徒はマクドナルドに駆け込んで行き、皆を圧倒させていたに違いありません!私はそのブロックを走り回って、出てきた路地に入り、息も絶え絶えにホテルに帰りました。ホテルのスタッフは、私がとても変な人であるかのように見ていましたよ!それ以来、私はホテルの自室にずっといました。

マイケルは30歳の誕生日にイングランドのリーズでパフォーマンスしました。1988年8月29日です。9万人のファンが「ハッピーバースデー」を歌いました。私たちはそれに合わせて演奏しました。

Bad Tour Crowd

アメリカ・ツアー:1988年9月26日〜1988年11月13日

私のよい思い出の一つは、ミシガン州デトロイトのパレス・オブ・オーバーンヒルズで演奏した時のものです。私はミシガン州サギノーの出身なので、家族や古い友人たちが大勢ショーに来てくれたのです。私は両親と弟夫婦を白いストレッチリムジンで宿泊先のホテルまで迎えに行き、ショーへ連れて行ったのです!両親がショーに来ることはマイケルに言ってあったので、ショーの前に、マイケルは私の両親と弟夫婦にドレッシングルームまで来てくれるようにリクエストしたのです。私たちは数分間話をして写真を撮りました。みんなショーを楽しんでくれましたよ!

日本ツアー:1988年12月9日〜1988年12月26日

東京ドームの完売9公演のために私たちは日本に戻って来ました。日本に戻るのは素晴らしいことでした。前回ここで演奏した時に友達がたくさんできました。日本は私の何かに共感したのです。ツアー終了後、私は日本へ戻りました。長い間、日本とアメリカを半年ずつという生活でした。レコード製作やコンサルタントをしていたのです。後の妻となる人とは日本ツアーのこのレグ(後半)で知り合いました。彼女はプロ通訳でステージプロダクションのために通訳をしていました。

私は今日本に住んでいるのです!

Chris Bad Tour

ファイナルLAショー:1989年1月16日〜1989年1月27日

ツアーは終わりに近づきました。16か月にわたって続きました。15カ国440万人のファンに向けて123公演を行いました。ツアー終了時、トータルで1億2500万ドルの収益を得て、史上最高収益のツアー、そして最大観客動員のツアーという2つの新たなギネス記録を獲得しました。

ロサンゼルスのスポーツ・アリーナでの最終公演を思い出します。歴史を作ったこのイベントももうすぐ終わりです!ショーの終わりが近づいてきました。観客は元気いっぱいで、私たちの演奏もばっちりでした!その時です。ステージ全体が揺れ始めているのに気がつきました!何が起きているのか分かりませんでした。「Man In The Mirror」を終えてバンドがお辞儀をしている時、マグニチュード5.0の地震が起きたのです。太平洋時間午後10時54分でした。何とすごい終わり方なのでしょう!

Bad show end

終わりに

1990年の夏、Dangerousアルバムの仕事を少しした後、マイケルとの仕事は終わりにしようと決めました。私には先に進む必要があったのです。去ることについて、友人は私がおかしくなったと思いました。なぜなら給料が大変良かったからです。彼らには、お金や名声だけが人生ではないということが分からなかったのです。私は去るつもりだとマイケルに言いました。彼は驚きました。彼との仕事を辞めた人は誰もいなかったのではないかと思います。私は、もし本当に私が必要なら手助けするが、私は自分自身のアーティストとしての進むべき道を追求する必要がある、と彼に言いました。彼は私の決意を尊重してくれました。数回、彼が困った時に電話をかけてきましたが、彼と話をしたのはそれが最後でした。

2009年4月末に私は日本へ引っ越しました。6月26日、マイケル・ジャクソンが亡くなったとの知らせを受けました。最初は信じることができませんでした。でも彼が本当に亡くなったということがすぐに明らかとなりました。私は数日間ショック状態でした。いつかまた一緒に仕事をするとずっと思っていました。もしそういうことがあるなら、それは地球でのことではないことが今では明らかです。

私の考えを私のウェブサイトに書きました。現在まで、マイケルとの経験を公にしたことはありませんでした。

私のウェブサイトから転載です…

マイケル・ジャクソン - 2009年6月26日

マイケルを失ったことで、世界は少し欠けてしまいました。3年以上にわたって1日17時間マイケルと緊密に仕事をしたことで、私は彼のことをよく知り、そして彼の偉大な才能を尊敬していました。そこにはつまらない瞬間などありませんでした。スタジオで一緒の時は、いつも二人で子供みたいになって、仕事をさぼっては遊んでいました。どのようにして仕事をしたのかわかりませんが、でもやっていました。マイケルと仕事をしたことで、私のレコーディング・クォリティの基準が上がりました。彼は常に要求水準が高く、常にインスピレーションを与えてくれ、そして常に楽しい人でした!彼は私の音楽創作の手法を変えたばかりでなく、私の人生を変えたのです。彼は私の友人でした。とても寂しく思いますが、これからもずっと彼のことを思うでしょう。彼はこの宇宙でより大きく偉大なことをするために先へ進みましたが、彼のエネルギーは地球上にずっと残り続けます。全ての人々が、彼の音楽を聴くことによって感じ、経験するために。

無限の感謝を込めて

クリストファー・カレル

Chris at Mt. Fuji, Japan

来月また「イベントホライゾン」でお会いしましょう!

2015年6月30日

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原文:
THE EVENT HORIZON – “SYNCLAVIER, MUSIC AND MICHAEL JACKSON” – PART4
The "Bad" World Tour – On The Road
June 30, 2015

 

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